訳者の力

色んなアクシデント(・・・)によりまだ全部読めていないのですが、ドン・ウィンズロウウォータースライドをのぼれ』(創元推理文庫)がとても面白いです。ていうか、いつからこれはお笑い小説になったのだ!
登場人物の一人が大変特徴的な口調で話すのですが、これ訳者の東江一紀氏はご苦労なさった事でしょう。日本語のどの言葉を選択するかによって、人物の性格が変わってしまいますものね。素晴らしい訳でございました。登場したとたんお茶吹きましたよ。旧作の例の決まり文句といい、このシリーズの訳が氏で良かった。早く次巻(最終巻)を訳して欲しいものの、終わっちゃうのも嫌だなあ。



『これは訳者の勝利だろうなあ』と思う作品はいくつもありますが、とっさに思い浮かぶのは『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス著/小尾芙佐訳/早川書房 デザインの面からハードカバーを強く推奨)と『フィネガンズ・ウェイク』(ジェイムズ・ジョイス著/柳瀬尚紀訳/河出文庫)です。
前者は今更言うまでも無いですが、名訳でしょう。漢字とひらがなとカタカナの混じりあう日本語をこれほど上手く活用した訳はそうそう無い。

後者はねえ、凄いとしか言いようが無い。あまりに凄すぎて3行くらいで眼が拒否反応起こして1ページ以上読めないくらいだ。怒涛の言葉の洪水に頭から飛び込めれば快感なのでしょうけれど、まだ没頭するまで行き着けません。野田秀樹が延々とデタラメな外郎売をまくし立てているみたいだ。私にはまだ意味を追うことさえ出来ない。いつか読み通してみたいものです。気力と体力が充実しているときに。
しかしよくここまで訳されたなあ。柳瀬氏は絶対激ヤセしたと思います。



原書を満足に読めない語学力の人間にとって訳者の力は重要です。原書と訳が幸福に出合ってくれれば良いのですが(そしてコンビを組んでくれれば。ジャン=フィリップ・トゥーサン=野崎歓氏の例とかね)なかなかそうもいかない。良くないほうの例だと、10年くらい前、ディーン・クーンツの版権が某「超訳」の版元に買われたときに、方々の書評誌で大騒ぎになった事がありましたよね。「もうきちんと訳されたクーンツは読めないのですか?」とか。
最近だと某世界的超ベストセラー魔法学校モノ。



「英語勉強すりゃいいじゃん」といわれれば、まあ、そりゃそうなんですが、良い訳は作品の魅力もアップすると思うんですよ。ストーリーを追うのは、原書読んで単語拾い集めて構築すれば良いわけで、それは中学生だってできる。辞書ってモノもあることだし。面倒くさいけど。
でも翻訳小説の楽しみは原作者の世界観に翻訳者の言葉のセンスが混じりあって生まれるものだと思います。それが面白さになる。きっちり一字一句忠実に訳したら、それはつまらない報告書になってしまいますもんね。


翻訳小説を手に取ることは二人分の文章を一気に手に入れることが出来るというわけで、お得なことだよなあ、と嬉しくなってしまうのです。色んな文章や文体を見るのが好きなのでそう思うのかもしれませんが。訳者が違う同じ本を買ったりもするし。




だんだん文章の収拾がつかなくなってきたのでここでやめておきます。