30分の出来事

  • 今日の買い物
    • ベトナムぐるぐる。  k.m.p.編 角川文庫
    • 業界の濃い人  いしかわじゅん著 角川文庫
    • やっぱり美味しいものが好き  ジェフリー・スタインガーテン著 野中邦子訳 文春文庫


Kは途方にくれていた。


20分前までは確かにとても楽しかったのだ。
仕事を終えてから、親しい友人たちと夕食の約束をしていた。久しぶりにフレンチのディナー。つきだしの「タルトオニオン」から最後の「ココナツのブラマンジェ・キャラメルアイス添え」まで、申し分なく美味しかった。ゆっくりと食事をし、たくさん話をし、グラスワインで気持ちよくなった所で、カラオケに移動。

そこは幸いにも曲数の多い店で、普通だとほとんど入っていないKの愛するバンドの曲が10種近く入っていたのだ。同行の友人たちの迷惑も顧みず、頭から順に制覇し、ボーカルが昔組んでいたバンドの曲まで制覇。もちろん友人たちは、そのうちの一曲も知らなかった事は言うまでもない。そのかわりKも友人たちの歌った曲をほとんど知らなかったのだからおあいこだ。Kの友人たちは大概自分勝手なので、他人の趣味嗜好にあまり興味は無い。各々が楽しければ良いというスタンスなのだ。


4時間ほど歌い倒し、自分の車を止めておいた某24時間営業のスーパーまで送ってもらう。レストランは駐車場が狭いので、ここに皆車を止め、乗り合いで行ったのだ。Kは翌日休みだが、中には仕事の者もいるので今日はここで解散。

ここで冒頭に戻る。


Kは途方にくれた。
エンジンがかからない。こういうことは最近よくあって、一度や二度駄目でも、三度目くらいでかかっていたのだ。
今までは。

おかしい。何度キーを回してもかからない。時間は午前2時。修理屋は当然開いていない。運悪くJAFのカードは朝鞄の入れ替えをした際置いてきたカードケースに入っている。車に入れておけば良かったと後悔した所で、今はどうしようもない。今別れた友人に助けを求め、仮に車をここに置いて家まで送ってもらおうにも、Kの家は並外れて遠いのだ。ここから30キロ程ある。いくら親しくとも簡単に頼めるような距離では無い。
親も兄弟も当然寝ているだろう。


誰か助けてはくれないか、ためしにバッテリーを繋いでくれそうな人は。エンジンさえかかれば帰れるのだ。


スーパーの入り口方面に目をやる。素行の悪そうな若者たちが、車高が低く羽を生えさせた珍妙な車数台を交代で自慢げに走らせている。深夜のスーパーの駐車場は彼らのパラダイスだ。Kには地獄だが。
出口付近にいるKの車には気がついていない。保護色で良かった。安心している場合ではない。彼らに助けを求めるべきだろうか。それとも店内に入って助けを求めたほうが良いだろうか。しかしそこまで行くのにはあの若者トラップを潜り抜けなければならないのだ。
Kには勇気が無かった。いっそのこと徒歩で帰ろうか。5時間程歩けば帰れそうな気がする。Kにはもうあまり判断力も無かった。


そのときKの脳裏に十数年前の自動車学校の事がよぎった。Kの担当は、重要な事はあまり教えてくれず、余計な事ばかり吹き込む大変適当な人で、そのためKは仮免に2度も落ちたのであるが、あの教官、何か言ってなかったか。
ああ、そうだ。


Kはキーを回しながらアクセルをちょっとだけ踏んでみた。かからない。もう一度踏んでみた。まだ駄目だ。もう一度。今度は心持ち強く。空回るばかりだ。やはり駄目か。何度も繰り返す。どうしてもかからない。やはり歩いて帰るか。それとも日が昇って車が暖かくなるまで待つか。最後にもう一度だけ。



かかった。
Kは安心して本気で泣いた。



『寒いから』という理由で原付研修を吹っ飛ばしたいいかげんな教官に、Kは初めて感謝した。そのおかげでKは未だに原付に乗れないのであるが。


よく考えれば、これは基本中の基本なのだ、イグニッションキーを回しながらエンジンをふかす、というのは。車に乗る人なら誰だって知っている。素行の悪い若者など毎日やっているだろう。なぜすぐ気づかなかったのか。焦っているのにも程がある。スーパーの入り口付近にいた若者たちに聞いたなら、バカにしながらも5秒でかけてくれたはずだ。声をかけなかったのが悔やまれる。


ともかく、途中で止まる事も無く、1時間後に無事に家に到着。Kはその後つい本を読んでしまい、朝眠りについて起きたのは夕方になってから。当然修理屋に行くどころか、今日はエンジンすらかけていない。明日の朝を思うと暗い気分になってくるKであった。











タクシーで帰ろうと思わなかったのは、電話番号がわからなかったのと、財布に300円くらいしか無かったからです。家までどう考えても1万円はくだらない。車のメンテはこまめにしたほうがいいですよ、車派の方々。
あともういい大人なのでこれから財布には余分のお金を入れておければいいなあと思いました。