詩とか俳句とか

にほんごであそぼ」という番組が好きで、ほぼ毎日見ています。今まで知らなかった詩や俳句、短歌が出てきて結構面白い。大人になってからこういったものが急に魅力的に思えるようになった。
子供の頃は「詩」と「自由律俳句」が大嫌いでした。読むのも書くのも。頭の固い子供だったので、「自由に書け」と言われてもどうしていいか解らなかったんですね。これは中学のときの国語の先生の影響が多分にあります。まだ覚えていますが、この先生、授業参観のとき、教室の後ろに父兄がいる前で「私は自由律俳句が大っ嫌いです。認めませんので教えません。」と言い切った。なので「自由律俳句」がどういうものか、私たちはそれを知る前に触れる機会が無くなった。そして教科書に載っている放哉とか山頭火のは「ダメなもの(認められないもの)」としてインプットされてしまったのです。今考えるとなんてもったいない、と思いますが、当時は疑いは持たなかった。「先生」というものは「絶対」だと思い込んでいたから。詩も同様。小学校の授業ではやった覚えがあるのですが、中学では作文の授業はあったものの、詩はついぞやった覚えが無い。教科書に載っていたのかも覚えていない。たぶん飛ばされたんでしょう。
おそらく「型にはまったもの」が好きな先生だったんでしょうね。俳句は五・七・五。短歌は五・七・五・七・七。季語は必ず入れること。詩は漢詩みたいに韻を踏んでなくてはならない。
漢詩はやったんです。あと教え系。「少年老い易く学なりがたし〜」とか、職員室に一人ずつ呼ばれて先生方に聞こえるように暗誦させられた。(思い出した。これ漢詩の授業じゃなく、「しろばんば」かなんかやったときだ)間違えずに暗誦できると、「ごほうび」がもらえたとおもいます。栞とか。
で、現代詩を読む事も書く事も教えられてないのに、「詩、もしくは俳句・短歌を○個作ってくる事」と夏休みの宿題に出ちゃったりするものだから、どんどん嫌いになっていったわけです。

教育理念や、信念、やり方は教師によって色々あるのだろうから、それはそれでいいんですが、子供の頃にこういった自由な発想のものに触れる機会があったなら、そしてもっと柔軟な考え方をしていい、と教えてもらっていたら、もう少し頭の柔らかい人間になれた可能性だってあったかもしれないなあ、とも思う。きちんと凝縮された俳句や漢詩の美しさは、充分に教えてもらったので、悪い先生ではなかったのですが。


だから、有名なカール・ブッセの『やまのあなたのそらとおく〜』も、放哉の『墓の裏にまわる』も、けっこう大人になってから知った。ずいぶんと出遅れてるわけです。私は。詩と自由律俳句に関して。
二十歳前後の頃にたまたま手に取ったエッセイ集に尾崎放哉の俳句が載っていて、そこから急激に自由律俳句の強さにひかれたり、詩の方は同時期に当時激ハマリしていた橋本治の「詩集 大戦序曲」(河出文庫)にガツンとやられたのですが、だからといって次に何を読んだらいいのか、どんな俳人や詩人がいるのか、手がかりが全くない。
そんなときに「アンソロジー*1」というものはとてもありがたいものです。手がかりになる。

「声に出して読みたい日本語」等、今かなり沈静化しているものの、一時期日本語バブル状態になっていたとき出た大量のアンソロジー。賛否両論あるとは思いますが、これは便利なテキストだと思ったのです。私のように「一般的に知られている詩・俳句ですらわからない」という人間にとっては。


今日買った文春の「教科書で覚えた名詩」の収録されている詩や俳句って、本当に教科書に載ってたのだろうか。と、思う。もちろん全部が同じ教科書に載ってるわけではないという事はわかっていますが。
だとしたら、国語の教科書って、良いアンソロジーだったのだなあ。



というわけで、私は毎朝、NHKの「にほんごであそぼ」を見て、幼児と一緒に「ゆあ〜んゆよ〜ん」とうわごとのようにつぶやいているのです。

*1:と言っていいのかわからないけど、便宜上。