お汁粉とカレー

今日は鏡開きですね。鏡餅は割りましたでしょうか。我が家は偽鏡餅なので、裏側のビニールをベリベリと剥がし、中から出てきたちっこい餅たちをお汁粉に投入しました。今気がつきましたが、これ、ヤッターマンみたいですね。大量のミニメカが口から出てくるヤツ。
普通お汁粉と言ったら食後にデザートみたいな感じで出てくるそうですが、我が家は違います。主食です。どんぶりです。しかも正月シーズンだけではありません。年中無休。一般家庭のカレーくらいの頻度で食べます。他人の家は主食じゃない、と知ったときの衝撃たるや!頻度はともかく、主食の家庭、他にも絶対いると思うんだけどなあ。
カレーと言えば自動的に大槻ケンヂを思い出します。
何のエッセイか忘れてしまったのですが(たぶん『散歩マン旅マン』か『のほほん日記』じゃなかったかと)
ふらふらと東京駅に行き、温泉にいこうかとなんとなく熱海に着き、ふらふらと駅周辺を歩いていたらカレーの匂いがした。見つけた店に入ってみるとそこの主人は筋肉少女帯の事を知っていて、そこで食べたカレーはしみじみと辛く旨かった。結局温泉には入らず、またふらふらと帰ってきた、と云うような話。
たしか解説の沢野ひとし氏もその章にふれていたと思うのですが、本自体が今手元に無いのでいかんともしがたい。
読んだ後猛烈に、知らない場所でカレーが食べたい、と思ったのを覚えています。なんて単純な。
大槻ケンヂの文章の心地よさは、視線が常に揺れているからではないかと思っています。いつも不安定。そしていつまでも安心できる場所を求めてさまよっている。どこにあるかもわからないのに。
だれでも同じように揺れ動き、さまよっているのですが、彼の場合吐き出す場所があるだけに振幅が大きいように思うんですね。上手くいえないんですが、読者としては危ういものを見ていたい感じ。いつまでも不安定なままでいて欲しいんだけど、安定したところも見てみたい。安定しているように見えてもちょっとつつけばまた揺れ始めるであろう所が、彼の「文章の」魅力ではないかと私は思う。


何故餅の話から大槻ケンヂまで行き着いてしまったんだろう。