許容範囲

三浦しをん著「乙女なげやり」太田出版(だったと思う)を読んでからつれづれに考えてたんですが、「読書」の範囲ってどのあたりまでなんでしょう。
というのは、この本にですね、『彼氏と待ち合わせをしていて、自分が少し遅れて着いた。遅れた事を詫びたら「本を読んでいたから気にならなかった」と答えられ、手に持っているのを見たら少年漫画誌だった。自分の「読書」の概念とあまりにも違っていたため、その後別れた」という友人の方の話が載っていたのです。この方は「少年漫画誌」を「読書」と認められなかったんですね。せめて「本を読んでた」ではなく「マンガ読んでた」なら何とも思わなかったと。三浦しをん自身は「自分だったらマンガはともかく『上司と上手くやる法』とかだったら許せないかも」と書いていたと思います。すみません、記憶のみで書いてるので多少違うかも。

で、自分だったら、何を「読書」とされたら嫌かを考えていたわけです。紙媒体で、書籍の体裁がなされていて、数ページあるものであったなら、それが「GUNDAM FACT FILE」でも「月刊総務」(あるんですよ、ちゃんと)でも「読書」と呼ぶにやぶさかではないような気がします。ただ、その選択肢にヒくことはあると思いますが。私だったら、一例ですが、これが中○○○とかの啓蒙本だったらかなり付き合いを考えると思う。(ていうか、この人自体を作家とは認めたくない。紙がもったいない。ページの下半分空いてるし。1冊出るごとに植樹しろお前。というほどに私はこの人が好きじゃない。好きな方には申し訳ないけど)。価値観の相違ですね。

で、私たちよりももっと年代が上の方たちは、もっとずっと、許容範囲が狭いのではないかと思うのです。これが『「若者の活字離れが進んでいる→同年代の作家の出現により食い止められるか」とか言ってる人たちは「ライトノベルを読書と認めてないんじゃないか」問題』に通じるわけですが、長くなるのでまた明日(たぶん)